ノルウエー王国への旅

 

黒川   泰男   04.10.31

 

   2004年は妻を連れて、ノルウエー王国へ旅立った。フィンランドとスウェーデンへは訪れたことがあるが、イブセンを生んだ国へ行くのは初めて。同国の人口は455万 (2003)であるが、面積は日本とほぼ同じ。首都オスロ(人口:50万)に着地したのは10月1日夕刻だった。 

   年齢(77歳)は争えず、私は病気がちの身。欲張ることはできない体。旅行目的と言えば、汽車やバスの窓から、未知の国の眺めを楽しみ、ノルウエーに関わってエッセイを書く。そんな目標を立てての外遊だった。

   人口こそ少ないが、オスロは北欧で最古の首都、経済的にも文化的にも高度 に発達した都市。観光バスを頼って、市内を駆け巡ったが、直ぐさま私たちは世界のどこにもないものの存在を知ることができた。街の中心部にヴィーグランド という名称の広い公園がある。

   特にその公園内、更には市内各所で、私たちは、ありとあらゆる姿態を持つ 人体が彫られた美しい彫像を見たのだった。青銅、御影石、鉄素材で象( カタド )られた彫像の数は212も有ると言う。多くの人物像は個単位ではなく、総体としては一作が2人、4人、10人、あるいはそれ以上を含み、合わせれば 212が600もの千姿万態の人間絵巻像を呈することになる。

   それでは、これらの作品の作り手は誰か。それは今では公園名にもなってい るヴィーグランド(1869~1943) 。私はありとあらゆる姿態と述べたが、それは赤子・乳飲み子どころか、胎児さえ含んでいる。つまり、それは老若男女といった言葉を超えた意味を孕んでい る。幾つかの人体が肩を寄せ合ったり、腕を組み合わせたり、抱き合ったり、しがみ合ったり、向かい合ったり、目を見据えあったりしている。これらの百面相 が何とも人間味に溢れているように感じられた。しかし、観光バスは充分な鑑賞時間を与えてくれない。私たちは偉大な芸術家ヴィーグランドの作品全体の一部分を垣間見ただけ。そうした時間的制約があり、結局はホテルに戻って、購ったヴィーグランド関連の図書・写真集を食い入るように見入ったのだった。

   ともあれ、オスロ観光から私自身学び取ったことを簡単に記して見よう。ノルウエーが生んだ天才的偉才ヴイーグランドのオブジェの全てが人間であった。彼は人と人との結合の仕方(愛情の在りよう)の無限の可能性を直截かつ赤裸々に私たちに示してくれたのではないだろうか。彼は人間の生命の在りように関わって、深い哲学を持っていた。 彼は体を張って、芸術と哲学とを合体させようとしたのだ。彼の人間彫像は美的対象物を超えて、私たちに人間の生き方がどうあるべきかを私たちに問い掛け、問い質しているのではないだろうか。

   多くの優れた芸術品を見残したまま、類なき芸術都市オスロを去ることに なった。私たちは翌朝早くベルゲン行きの汽車に乗り込んだ。さてさて、オスロからベルゲンまでの7時間もの爽快な汽車旅行について、話を進めるとしよう。列車の車体はえんじ色。街中であれ、郊外であれ、畑地であれ、この国の建物は濃密なえんじ色が多く、次いで白亜色。寒い時節が長く、えんじ色と雪景色との コントラストは人目を引くように感じられる。

   首都からベルゲンまでの路線は、日本に引き寄せてみれば、東海道線と山陽線とを合わせたようなもの。しかし、車両は僅か6輌、その中の1輌は売店と喫茶食堂を兼ねる。始発オスロからの乗客は一車輌5,6名程度。私たちはまこと に贅沢な汽車旅をしていたことになる。この急行列車の全走行時間は6時間40分もの長い時間。しかし、なぜか知らず私たちは退屈することが無かった。車窓からの眺めが良かった。風光絶佳の地を走っている。30ほどのトンネルを潜り抜けたが、トンネルから見える景色さえ見ごたえがあった。

   と言うのは、幾つかのトンネルには窓が彫り抜かれていて、その窓と汽車の 窓とが合わさって、外部の川やら岡やら木々やらを私たちは見ることができたからであった。走り抜けに8分も掛かる場合もあったが、トンネルさえ私たちの心を弾ませてくれたわけだ。

   トンネルを抜けると、左手には清冽な川、右手には黄葉した雑木林や樺の 木。次のトンネルを潜り抜けて、今度は穏やかな清流、次いで滝さながらに激しい川の流れ。川幅は10メートルにもなり、時には30メートルほどに拡がる。 さらには幅が50メートル以上にもなって、これは湖に見えてしまう。つまり、走り抜けるたびに、川の形状が著しく違って見えるのである。

   車窓から遠くに見える山々も折に触れ、変容して現出する。緑滴る岡や山々。ごつい岩山。雪かぶる山。大滝が流れている山峡。トンネルを出るや否や、新奇なものが常に待ち構えている感じ。他方、人間の姿がなかなか現れない。どこまでも続く美しい自然。急行列車であるから、停車した駅は6時間40分走って、10駅足らず。終着駅のベルゲンの二駅前と一駅前を除いて、大方のプラッ トフォームは人気なし。大きな駅でも、せいぜい4人か5人。ノルウエーの面積は日本のそれと殆ど同じはず。それにしても、人が少なすぎる。その人たちは口 を閉ざしたまま。10月はシーズン・オフであるのだろうか。しかし、この物静かな汽車旅行が寂しさを感じさせることはなかった。美しい抒情詩の世界を走り 抜けるかのように、昼下がりの3時に、由緒深きベルゲン駅に到着。早速、駅の裏手にあるホテルに宿を取ることになった。

   ベルゲンは雨がよく降るところとして、知られているが、正にその通り。降ったり止んだりの雨足が次第にピッチを上げ、秋時雨一色になる。北欧のベルゲン並びにその近辺には名だたるフィヨルドがあるが、それはよく知られている ので、そうした自然現象に言及することは避けたい。何はさておき、私はオセロに次ぐ人口(22万8千:1993)を持つ港湾都市ベルゲンでの人々の生き様を知りたいのだ。この日はひどく旅疲れもしていたので、ひどい雨の中での散策は諦め、明日を期した。

   さて、一晩ぐっすり眠って、気持ちよき目覚め。朝は快晴。ベルゲン駅を出て直ぐ左手に周囲凡そ2000メートルほどの長方形の、きれいな池がある。あたりは散策に持って来いの緑地帯。同時にベンチに座って、瞑想に耽る、あるい は好きな人と語らい合うような居場所。何がなし、妻と池べりに間を置いて並んでいるベンチの数を試算してみた。何と50もあった。概して言って、ヨーロッ パのどこを歩いてみても、ベンチが多いこと!日本はどうか。我が家はJR大津駅近くにあるが、駅から琵琶湖水際まで約800メートルの大通りの人道には一個のベンチもないのだ。我が愛する日本は私ごとき老齢者には居心地の悪い国であると、改めて認識した次第。

   市内をそぞろ歩きしながら、私は全域的にベルゲ ンは石畳が敷かれている箇所が非常に多いことに気づいた。ベルゲン駅の裏道、駅に隣り合わせの大池の周辺の歩道やら、ショッピング街の通り道など、石畳道 や石畳箇所が至るところに散らばっている。土砂の流失や道の崩壊を防ぐ必要から、石畳が敷かれるようになったのであろうか。それはそれとして、あちこちに 敷き詰められた石畳がある種の情緒をかもし出しているように私には感じられ、私自身床しい気持を誘われたのだった。

   ベルゲン港に面する海辺には魚市場があった。この市場の近くには世界文化遺産に登録されている古い建物がある。中に入ってじっくり見とどける時間もないまま、直ぐ近くのケーブルカー乗り場に 駆けつけ、すぐさま乗車。10分たらずで、私たちはフロイエン山の頂上(標高320m)へと運び込まれる。ケーブルからも山の頂からも、ベルゲン市全体が 見渡せたわけであるが、トイレ休憩15分を含んでも、余りにも短い観賞時間。その景観美を言い表すのに、「ワンダフル」も「筆舌に尽くし難し」も何やら野暮ったい感じがしたのだった。

   私は執筆活動を通して教育に関わる仕事に携わっているので、ノルウエーの教育のことは気になる。しかし、僅か2泊の滞在、学校訪問などしようもない。やむなく、本屋を見つけ英語教科書を求めることにし た。結果として、若干の高校用のものを探し当てた。その教科書に関しては、別途書こうと考えている。ここでは、ノルウエーと日本の本屋との違いについて、気付いたことを一つだけ書く。ベルゲンの中心街で、三つの書店に入った。それらの店に共通する特徴 があった。それは、それぞれの店が週刊誌やヌード雑誌を置いてないということだった。どこかに、いかがわしい雑誌類を販売する店もあるのだろうが、日本の場合は殆ど大方の本屋が好ましからざる週刊誌を店頭に並べているのではないか。

   オスロであれベルゲンであれ、街中で人に意識的に何か分からないことを質問するように努めたが、老若男女誰に話しかけても、英語がよく通じた。ノルウエー人にとって、英語は外国語 ではなく、第2言語であるかのようである。学校カリキュラムを調べてみると、ノルウエーでの英語の学習開始 時期は小学校低学年次であることが分かった。しかし、それぞれの国の教育史の発展過程が違っているので、日本がノルウエーのやり方を機械的に真似すれば、それは混乱を招くだけであろう。日本における教育的状況を踏まえて、我が国の外国語教育改善の道を 前向きに探る必要があろう。

   今、私はノルウエーの肩を持ちすぎているように思うが、何か不自由だったり不快だったりしたことは何もなかったのか。外遊は経費がかなり掛かるので、それに見合う良き思い出を残したいというのが人情であろう。よく知られている通り、石油産出量に関して、ノルウエーはヨーロッパではナン バーワン。その漁獲量もナンバーワン。少なくとも、経済面ではノルウエーは北欧ではトップ。今日 (2004)なお、一般政府財政収支は大幅な黒字。失業率はヨーロッパで最低水準。実際問題として、ノルウエーはヨーロッパどころか世界で最も富裕な国の一つである(国民1人当たり所得<米ドル>スイス37,930:ノルウエー37,850: 米国35,060: 日本33.550)。

   誰がどう考えようと、今日の世界に結構尽くめの国があるはずはない。日本は物価が高いと言われているが、ノルウエーはどうか。少なくとも、書籍に関する限り、その値段はやたらに高い。研究の必要に迫られて買い求めた英語教科書など、日本で同じ物 をあがなえば2千円ほどのものが、5千円もしたのだった。従って、僅か3点しか買えなかった。西欧諸国も同じところがあるが、公共トイレを使うのに小銭を用意しなければならない。私の妻は小銭が無くて困ったことがあった。

   ノルウエーは今日なお EU(the European Union)に加盟していないが、その理由として政治的影響力と天然資源の権益喪失を懸念する世論があるからと考えられているらしい。その外交政策には、近隣諸国と協力しながら自国の発展を図るというよりは、自国中心性が見られはしないだろうか。しかし、印象風な旅行エッセイで、政治,・経済にまたがる問題を深く論ずることは殆ど不可能である。それらのことはより多くの時間をかけて、別な機会に論ずることにしたい。 

   追記

   印象風なエッセイを何とか書き終えた時点で、念のためにインターネットでノルウエー 情勢を調べてみた。今から2年前(2002)あたりから、ノルウエー経済は急速に低迷を続けていると言う情 報を得ることができた。又、最新のノルウエーのアンケート調査では、EUへの加盟の支持者が過半数を超える ようになったと言う。首都オスロでのEU加盟支持は66% に達したらしい。世界の多くの国々に当てはまることであろうが、最近の政治・経済の動向は変動が激しく、極論すれば、今日入手した情報は明日は無効になってしまうかもしれない。しかし、私のエッセイの中で、政治・経済に直接関わらない箇所は、今後も長年月に亘って、書き換えの必要はないだろうと思う。