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私と韓国

黒川 泰男

はじめに
  本年(2005)6月5日から同月11日まで、富士ツーリストの企画に従がって、韓国の慶州一帯と首都ソウルを旅歩きしてみた。わずか5人の小グループ旅行。偶然にも、最初からお互いに物の考え方・感じ方が似通っている人たち。趣味や専門の違いがあっても、それはそれで為になることだった。
  韓国は、地理的にも歴史的にも言語的にも日本に最も近い国である。私に取って、これは頭の中で理解できることであっても、ごく自然に感性的に受け止められてはいなかった。私と韓国との関わりを、自分の成育史とからめて思い起こしてみよう。

私の小学校時代と朝鮮人友だち
  私の小・中学校(旧制)時代の住み家は東京府足立区梅島町。隣接する本木町には何十世帯もの朝鮮人居住地があった。同じクラスに、本木町から通学する2人か3人の朝鮮人生徒がいた。親が朝鮮人であることの意味を良くは理解しないまま、私はK君と気が合い、親しい間柄になった。朝鮮人生徒を仮にK君と名付けたが、その本名は記憶していない。小学生だった私は朝鮮総督府(朝鮮支配の最高行政官庁)が朝鮮式の姓名を日本式に改めさせた創氏改名を強制・公布したという歴史事実は知らなかった。
  K君は我が家によく遊びに来たが、相撲を取り合ったり、剣玉遊びをしたりして、楽しく遊び興じたことが、70年昔にもかかわらず、今でも思い出される。戦争色の強い時代であったので、兵隊ごっこなどが思い浮かんでくるが、この私にも再び廻ってはこない古き良き日があったのであろうか。どんな悪い時代にあっても、多くの子供たちは思い思いの夢や希望を抱いて、生きているのではないだろうか。それでは、私は夜布団にもぐりこんで何を夢見たのであろうか。父や母は私にどんな夢を語ってくれたのだろうか。トルストイは自分の幼年時代を次のように描き出している。

 「楽しい、しあわせな、ふたたびは
めぐってはこないあの幼い日々!どう
してその思い出を愛さずにいられよう。
かずかずのその思い出は、わたしの心を
高め、わたしにとってこよなき楽しみの
泉となっている」(訳者は筆者黒川)      
 
  朝鮮籍の竹馬の友K君は歩いて40分もの遠いところに家があるとのこと。どこか教えてくれない。ところが、自転車を走らせて、図らずも私はK君が自分の家の前に立っているところに行き合わせた。そして、K君の家がバタ屋(廃品回収業)であることを知った。この刹那の私の気持ちは? 名状し難かいとでも言うのだろうか。何を言ったらよいか、分からぬまま、私は殆ど無言のまま、その場を立ち去った。
  K君は家の近くの小学校には入らず、歩いて40分もかかる学校へ通った理由は子供ながら分かった気がした。K君の親は自分たちの職業を公けにしたくなかったのではないか。
  職業に貴賎なしと言われるが、それは建前。戦前・戦中の日本ではバタ屋は職業として最低と認知されていた。私の母は衣料品店経営、父は業界新聞の記者。K君の家と我が家では身分違い。しかし私はK君が大好き。大好きという感情を身分意識で曇らせることはできない。
  しかしながら、残念至極であるが、K君との交際は私が中学校(旧制、非義務)に入って暫くして途絶えてしまった。彼は小卒のまま親の職を継ぐ。私は当時は30人に一人くらいしか行けない中学生。ある時、K君は私の家に立ち寄り、店にいた母に私に会いたい旨を告げた。私は店先でK君と立ち話をしたが、家の中の勉強室に彼を入れなかった。恐らく彼が持ち合わせていない大きめの『英和辞典』、その他贅沢な学用品などを彼に見せたくなかったのだろうか。彼が去ってから、母が私に「お前は冷たい」と、私を激しく咎めたことを今でもよく覚えている。私の母は小卒。K君と気脈が通じたのだろうか。

ベトナム戦争 
  私の中学時代はほぼ太平洋戦争と重なっているが、勉強が嫌いで、明けても暮れても文学書を読み漁るような暮らし方をしていた。戦争が終わった時、私は東京外事専門学校(今の東京外国語大学)ロシア科の新入生だった。我知らず私は欧米崇拝者へと自己形成をしながら生き長らえていたのだろうか。私は軍事大国アメリカには嫌悪感を持ち続けたが、概して私は西欧好みであった。自分の生涯を振り返ると、英国やパリには20回ほども訪れていたことになる。
  60年代前後には、日本にあるアメリカの軍事基地に絡んで、あれこれの事件が起こった。日本中を反米の坩堝に化した安保闘争(1959〜1960)が燃え広がる。それから数年経ってアメリカはベトナムに戦争を仕掛けた(1965〜1973)。ベトナムはただの一度もアメリカを攻撃もしていないのに、アメリカがベトナム全土を猛(盲)爆撃するようになる。そして、200万人ものベトナム人が殺戮される。こんなことは全く許されない。こうした状況の渦中にあって、私は私なりに積極的な反戦活動家になったに違いない。そして、時には激しく、時には静かに私の意識改革が引き起こされたに違いない。

アジアへの開眼
  私は20年もの長年月(1953〜1973)に亘る高校教師(英語)としての生活に終止符を打ち、友人の誘いを受けて大学の教壇に立つ身になった(日本福祉大学)。この大学は象牙の塔に閉じ篭らない優れた教師に満ち溢れていた。高校であれ、大学であれ、私は終始一貫組合活動に励んできたが、70年以降は学問研究(英語学)にも精励するに至った。70年初頭に教育科学研究会(略称は教科研)に所属し、病める日本を再生するには如何なる教育が必要であるかといった大問題について、多くの真摯な大学人と口角泡を飛ばして論議するようになった。
  個人的には私は教科研の責任者であられた今は亡き大槻健(早稲田大学名誉教授)先生の影響を強く受けていた。明らかに先生は西欧流儀ではなかった。先生は一般には大きな問題にはされていなかった韓国(=朝鮮)に深く暖かい思いを寄せ、機会あるごとに、そのことを筆に認(シタタ)められていた。先生は50歳を越えてから、韓国語を独習し始め、遂にそれを物になされた。先生は「言葉が通じてこそ、友だちになれる」(茨木のり子・金裕鴻の著書名{筑摩書房})という真実を体感されていた人であった。  
  私は私なりに自分の専門である英語(教育)研究に勤しんできた積もりであるが、大槻教授からの感化もあって、少なくとも中学・高校に関する限り、日本の外国語教育が英語に偏していることに根深い疑問を抱くようになった。言語に関わる研究会などで、私は「高等学校段階では二つの外国語(例えば中国語と英語)を必須外国語とする必要あり」と良く主張したものだった。ついでに言えば、韓国とは事情を異にして、韓国語が教えられている中学・高校が日本では非常に少なかった。他方、韓国では、英語に次いで、日本語が教授されている学校が数多く存在するのだ。この問題について言えば、私自身も韓国から大いに学ぶ必要があると考えていた。

韓国初訪問
 生まれて始めて韓国の領土に行き着いたのは今を去る11年前、1994年10月末のことだった。私が勤めていた大阪電気通信大学の英語科で、隣国の韓国の英語教育を調査して見ようという話が持ち上がった。英語科は学内で常に最低とも言える評価を受けており、英語教師(専任5人,非常勤25名)はいつも肩身の狭い思いをしていた。そんなわけで、韓国の英語教育はどうなっているのか、見に行こうということになった。国が近い。外国語教育に関わって、韓国は日本と共通した問題を多く抱えているに違いない。
  私が非常勤として働いていた天理大学の朝鮮語科の先生方に私たちの計画を詳しく伝え、協力を仰いだ。そして、韓国光州市の国立全南大学校外国語センターに文書連絡したところ、相手側は大歓迎との公文書を受け取った。結果として、私たち(英語専任5名)は光州市の中学校、高等学校の英語授業を見せて頂くことができた。それだけではなく、全南大学の英語科・英米文学科教員を交えて、日韓の全般的な教育事情について、込み入った意見を交換することができた。
  韓国の英語の授業(中・高の2校)はどんなふうだったか。今の日本では殆ど見られない古風な方法と新しい方法を混ぜ合わせていた。復習を大事にしている。復習のやり方が印象に残った。先生が物語を一節一節ハングルで話をする。それを生徒は一句一句英語に直すといった授業であった。教科書2頁分50行の英文をテキストを全く見ずに50人全員が見事に暗唱してのけた。授業の最初と最後が面白い。わずか5分の時間(合わせて10分)を取って、英語のリズムに親しませる。若者が喜びそうなロマンチックな英語の歌を聞かせながら、50人にそれをハミングさせるのである。口ずさんで終りといった風だった。儒教色の強い韓国の学校とロマンチシズムは私の頭の中で結びつかなかったが、韓国の学校教育はいま大きく様変わりしているように感じられた。
  
韓国再訪問
  「歴史と文化を考える‘95年・夏季ー韓国平和ツアー実行委員会」による総勢26名の旅であった。私は妻を連れて、この研修旅行に参加した。英語教育{学}も学校教育、大学教育の全体像から見なければ、井の中の蛙大海を知らずになってしまう。狭く限定して考えても、英語教育は外国語教育の中のひとつの分野でしかない。母国語教育と外国語教育との関わりといった問題も、よく言われている通り、非常に大事である。
  今から10年前の韓国は今日とは大違い。当時は反共が国是になっており、言論の自由は必ずしも保障されていなかった。公式的には、日本文化は排除されていた。しかし、実際には多くの人たちが特別な装置を設けて日本のテレビをよく見ていたようだ。釜山、大邱、光州、扶余、公州、首都ソウル(人口約千万)、板門店(朝鮮の南北を分ける38度軍事境界線上にある)など、軍用地であれ観光地であれ、韓国の要所要所を駆け巡ってきたが、それらの委細は今は  書く術もない。
  当時の韓国の学校では反日教育がなされていたはずだが、その実際は見聞のしようもなかった。稀には日本人だと知られると、張り詰めた雰囲気が醸し出されはしても、睨み合うといった風にはならなかったと記憶している。その後10年経った今はどうか。押しなべて韓国の人たちは冷静で落ち着きがあるように私には感じられた。30数年に亘って(1910〜1945)日本人が朝鮮に仕出かした悪辣な植民地政策は許しえないことだが、日韓の草の根のレベルで、こうした問題を正面切って話し合いたいものである。そうした条件を作るためには、お互いに文化交流を積み重ねる必要があろう。
  3回目は妻を含めて4人旅。主として観光目的で慶州地区を自由に歩き回った(1996−冬)。差し当たって、これは省略するとしよう。

韓国との文化交流
  4回目(1998)は 天理大学で紹介して頂いた金貞洙先生の招待を受けて、光州を訪れた。そこは韓国の民主化のための闘いが火花を散らした地域。光州への出発10日前に、日本語も達者という金先生に私は以下のような手紙を郵送しておいた。訪問者がどんな人間であるか前もって知って貰いたかったからである(一部分のみ記す)。「・・・ 日本は経済不況が進行し、政府官僚と金融業界との腐敗堕落は目に余るものがあり、保守的な人を含め多くの人たちが政治の革新を望んでいます。韓国の経済事情も大変なようですね。しかしながら、日本では今なお右翼的潮流が根強く残存し、驚くなかれ、東条英機を肯定し英雄視する「プライド」という映画が現に今上映されています。アジア各国から轟々たる非難の声が上がっていることは先生もご存知だと思います。ドイツと違って、為政者には第二次世界戦争で日本が犯した犯罪への反省は今なおありません。そうした国から私ら夫婦が御地を訪れるわけで、気持ちが引き締まる思いです。お詫びにゆくようで・・・」
  当地には又、日本語を学んでいる主婦グループが日本文学読書会を組織しており、彼女たちは然るべき日本人に名作の朗読をして貰いたがっているとのこと。日韓友好のためにも、そこへ出かけるよう勧めてくれたのだった。妻と私は退職まぎわの金貞洙教授(69歳)の自宅を訪れた。英文学専攻の先生が日本文学への造詣が極めて深い。私は先生に住井すゑ『橋のない川』をお読みになったかお聞きしたところ、先生はまだ読んでおられないとのこと。話が前後するが、日本に戻って直ぐ、私は住井さんの大河小説を全部揃えて、お送りしたのだった。
  婦人の読書会では、私は川端康成『伊豆の踊り子』を朗読するよう要請された。私としては、原文の味を損ねないように、心を込めて朗読したつもりである。読書会が終り、談笑しながら豪華な夕食に舌鼓を打ったが、別れ際に婦人の一人が私に以下のような宿題を課した。「黒川先生は今まで3回も4回も韓国に御出でになっておられる。先生の口から少しは韓国語をお聞きしたかった。今度いらっしゃる時は韓国語の基礎くらいは学んできて下さいね」。これは親愛の情をこめての宿題であった。さてさて、私はこの数年間何をしてきたのだろうか。もっぱら多忙を理由にして、韓国語は勉強しなかった。そんなわけで、私は日本文学が大好きな、あの婦人たちに逢うことができない。それが残念でならない。

むすび     
  記憶を辿ると、私の韓国行きは今度で5回目。富士国際ツーリストの企画による「韓国 古寺巡りの旅」に参加したわけであるが、今年の末に世界10カ国に関わって、紀行エッセイを出すことになっており、10カ国の一つ韓国をより深く知る必要を感じていた。
  そうした必要を満たすのに、今回の韓の国巡りは誂え向きであった。韓国人のガイドが得もいわれぬ日本通であった。同行のI さんがコトバの達人、Iさんの妻、2人の女性まことに好奇心満々の良き人たちであった。思わず私は「旅は道連れ、世は情け」という言葉を思い起こした。実年齢は中年、老齢であっても、気はうらら若々しい人ばかり。
  私の専門はロシア語と英語。英国へは何度も研修旅行、世界10カ国以上を繰り返し、駆け巡ったが、韓国へは申し訳程度の短期のそぞろ歩き。頭では韓国が兄弟国であると理解していたと言うのは許されざる言い逃れ。
  あらためて韓国を訪れ、現在の韓国は発達した資本主義国であるが、その気概において、日本を引き離してしまっている。私たち日本人の多くは自分の国の経済力がナンバー・ワンのアメリカに次ぐナンバ・ツーであることを誇りに思っているようであるが、韓国の経済力は世界第11位であり、国の規模から言えば、日本とほとんど同等であるのだ。しかし、経済力必ずしも万能ではない。ヒューマニズム哲学の視点に立てばその国の品位のほうが遥かに大事ではないか。
  韓国は言葉の前向きの意味において、伝統を重んずる国であることを、私は各所で感ずることができた。韓国にもそれ相応のエロチシズムはあるであろうが、どこを歩いても韓国人(特に女性)は清楚であり清潔であり、清純でさえあるように感じられた。ソウルの気温はかなり高かったが、概して肌の露出度は人目に立たなかった。良き意味での儒教の教えが守られているようだった。私自身は高齢者であるので、今日なお韓国では老齢者が敬われているようであるのを見て羨ましく思った。
  さて、私は個人的にはハングル文字に強い興味を抱いているので、旅行中引きも切らず注意深くそれらを見つめていた。そして、韓国人がハングルは世界中の文字の中で最も合理的で科学的であると誇っている理由が何となく分かってきた。確実に分かったことはハングルが非常に書き易い文字であると言う点であった。
  今度の旅の最大の収穫といえば、私の欧米崇拝病が感覚的にも何とは知らず崩れて行ったことだ。そして、地理的にだけではなく、日本人に最も近い国は、韓国であることを強く知った事だった。私には韓国人と日本人との顔かたちの見分けができない。多くの不幸な事件が両国間に起こったとしても、両国は壱千数百年の歴史的関係を結び合ってきた。大事な点は文化的に韓国は日本の先導者であったということだ。これは、韓国の古寺を巡り歩いて実感できたことだった。
  私たちは慶州市では石窟庵、仏国寺。あちこちの博物館に目も鮮やかに展示されている遺物、遺品、遺跡、仏像群、古代や中世の美術工芸品。ソウルに所在する絢爛たる昌徳宮。こうした数々の宝物を賞玩するために韓国を訪れたはずである。しかし、旅の道すがら、私はもっぱら、今後日韓の友好関係をどのように築いてゆくかという問題を考えるだけで精一杯。まことに失礼極まりないが、粋を極めた数々の韓国美術は時には霞んで見えてしまった次第。
  今日の日本人をも含めて、いったい私たちは日本の先輩格である朝鮮人に対して礼を尽くした交際をしてきたであろうか。そんなことが私には大変気になったが、実際にはお互いに和気藹々、まことに楽しい旅であった。