全員のための学習に向かう多変化授業*1)のABC
ホン・ワンキ(KETG常任顧問)
用語の選択:個別化授業よりは多変化授業
今までDifferentiated Instructionを「個別化授業」と翻訳してきましたが、個別化授業が生徒の個人別に学習目標を異にする授業、あるいは水準別(習熟度別)授業などと誤解される場合が多いので、これを「多変化授業」と呼ぼうと思います。多変化授業は、同一の学習目標を達成するために、その経路を異にする授業です。個別化授業と称する時には、生徒別、あるいは生徒集団別に異なる「内容」を学習するだとか、また学習目標が違っても構わないものと考える傾向があるようです。しかし、differentiated instruction は、学習目標は同一で、これを達成するために学習する内容、過程、そして学習の成果物(成果として出される作品や発表)を異にする授業であるという定義を考えれば、個別化授業よりは多変化授業と正すことがより適切であるという結論に至りました。
全員のための学習(Learning for All)の哲学を反映する多変化授業
多変化授業は生徒の学習準備度、関心、そして好む学習方法によって、学びうる内容、学ぶ方法、学習の成果発表のしかた、並びに学習環境を異にする授業です。多変化授業の目的や効果は複合的です。教師たちにとっては専門性(expertise)を開発し、発揮して、生徒や保護者の信頼を得るとともに、つながりを回復するためのものです。多忙ななかで業務中心的かつ入試従属的な状況で、教師たちは、自身の哲学と信念を振り返って実践するよりは、外部から「下りてくる」ものを教えなければならないという受動的な存在になりました。
このような状況で、教師は成績によって生徒たちを序列化せざるを得ない審判としての役割のみを強要され、いつのまにか同僚教師や保護者、生徒らとの人としての関係を結ぶことができなくなってしまっています。画一的な授業を脱し、生徒たちの個性と選択を尊重する多変化授業は、畢竟、生徒たちとのつながりを拡張するものとなるはずです。また教科専門性、時間、そして努力を要求されると同時に、多変化授業は、結局、専門職としての教師が、生徒たちとの―必要な―あらためて自分の立つべき位置を確認する契機になります。
生徒たちとって、多変化授業は、人間としての自分の権利を見つけることにもなります。教育の実状が「2対8」の割合となっているという指摘があります。すなわち、上位成績20%の生徒たちとその親たちの声は大きく聞こえてくる反面、残り80%の声は聞こえてこないという意味です。とくに学校教育は入試に従属的にならざるを得ないという口実から、成績による序列化は避けられないという考えが蔓延しています。上位の大学に何名送ったかで学校の名声を値踏みするという社会的雰囲気のなかで、試験で、成績上位圏の生徒たちの間のできる者とできない者をはっきり分ける弁別力を確保することが、試験の成否を左右する、という議論さえ存在します。その議論には大多数の生徒たちの姿は見ることができません。EBS[教育放送テレビ]による英語教材でも難易度は高く、大学入試修能試験に反映される教材5,6冊のすべてが、4等級以下の生徒たちには、難しい語彙や英文ばかりで、いっぱいになっています。
最近、光州の某高校で表面化した内申成績操作も、内申1等級をもらう生徒の点数をを水増し、記述を粉飾するものでした。「『学生部はねつ造された書類』現職教師の良心告白(週刊京郷1211号/2017.01.24)」の記事や「高麗・ソウル・延世大志望学生の後押し競争」という記事も同様です。NEIS(National Education Information System 全国教育行政情報システム)という、政府機関であるKERIS(韓国教育学術情報院)が構築したインターネットよる総合行政システムによって、学力に関する記述(特記事項)が入力される「恩恵」を受ける生徒はごく’「一部」となっています。もちろん教えている生徒の数が多くて、すべての生徒について詳細な評価および特記事項を書くことはできないのが現実とはいっても、なぜ成績上位圏の生徒たちに対してのみ入力するのでしょうか。生徒がどのように努力したのか等を書いてやることはできるのではないでしょうか。
上位の生徒のみ恩恵を与えるというのには、より根本的には、成績により序列化することの問題があるのです。今こそ、序列化によって、成績が低い生徒たちは、成績が低いままで放置されなければならないのかを、問いただす時です。大げさなように聞こえるかもしれませんが、私たちのみならず、世界では貧富の格差が広がるなか、保護者の社会経済的階層による成績格差が広がり、学閥によって社会的階級が決まることで、社会的流動性が硬直化しています。成績によって階層が固定化されることは、社会統合への葛藤を増幅します。わが国は、すでに身分制社会に近づいているという声もかなり聞こえてきています。ある判事部長は「どぶ川の龍は滅亡したのか」(「どぶ川から龍が出る」地位の低い家から立派な人物が出ることのたとえ)というコラムで韓国と中国の王朝の興亡盛衰について次のように一括しました。
衰亡期の特徴は少数貴族の土地私有化による大農場化、百姓の各種税負担の増加、貴族の子弟中心の私学増加、高位官吏の子弟を特別採用する文蔭、蔭敍[いわゆる縁故人事]制度の拡大を通じた支配階級の世襲構造の強固化、科挙制度の崩壊などをあげることができる。*2)
大農場化は富の偏重と、貴族の子弟中心の私学の増加は、高校多様化政策による上流層子弟中心の特定自律型私立高校をもたらしました。科挙制制度の崩壊により、学生部の総合選考等と関連した大学入試制度の公正性失墜へとなったと言ってもたいした違いはないほどです。社会的な危機です。
グレゴリー(Gregory)とチャップマン(Chapman)が指折り数えた多変化授業をすべき理由をくり返し考えてみる必要があります。
「学業に遅れがちな生徒たちをこれ以上放置してはいけない」のでした。努力を要する学習者(struggling learner) の心情はどうであろうか。自分は何をわからないのか、そして、どこで理解できなくなるのかを、誰かがとりあげて教えてくれたならうれしくて胸がいっぱいになるのではないか。そして、誰かが自分に漸進的な支援戦略(scaffold)を練って与えてくれたなら、理解しようと努力するという気持ちでいっぱいになるのではないか。学校に通うあいだ、あるいは時々、自分が放置されたという「見捨てられたという感情」を持ったりはしないだろうか。わからないことを知る必要があることは、生徒たちの義務というよりは権利なのです。最近、高校生ひとりへの教育を投与するための税金がたいへんかかるというのに、この恩恵を学校外の青少年たちはまったく受けられないのだから、現金や割引券、クーポン券であれ、同一の金額の税金の対価を支給すべきだという意見を聞きました。その通りです。青少年たちすべてに国家の税金が投与されなければいけないように、学校においても、誰も見捨てられてはいけないのです。努力を要する学習者も、分かるまで学べるという当然の権利を持っています。学習不振を放置することは人権蹂躙であるかもしれません。
多変化授業は、生徒たちが多様であることを認めて、尊重します。米国の教育課程開発並びに奨学協会(ASCD)の図表に見るように、そしてdifferentiated instructionという用語を作り出したTomlinson*4)の指摘通り、「多様であることは正常で、大切なことだ」といえます。とくに異質な状況において。多変化授業は習熟度別授業ではなく、努力を要する学習者に合わせて、学習目標を低くすることでもなく、英才だけのための教育でもありません。学習者がひとつの空間でいっしょに交わり、過ごしながら、時には一緒に、時には別々に多様な集団で勉強する授業です。OECDが定めた力量である異質的集団のなでの相互作用も育てることができます。
重要なことはTomlinsonの指摘のように「誰でも成功的に学ぶことができるという潜在力を持っていること」を信じて、実践することです。カナダ、オンタリオ州の"Learning for All" *5)にも同じ信念が繰り返されています。
注
*1)多変化授業を日常的に実践するための連載を始めます。その最初として多変化授業について確信を持とう、また、全員のための学習の土台となっている信念と価値観を共有しようと思います。
*2)ムン・ユソク『個人主義者宣言』文学トンネ(2015)
*3) Gregory. G. H. & Chapman. C. "Differentiated Instructional Strategies. One Size Doesn’t Fit All" CORWIN(2013)
http://mottokorea.com/mottoKoreaW/QnA_list.do?bbsBasketType=R&seq=7968
[韓国の高校について]
*4)Tomlinson, C.A. "The Differentiated Classroom", ASCD(2014)
*5) カナダ・オンタリオ州教育部 "Learning for All"
KETG機関誌『ともにする英語教育』2017年3月号より
棚谷 孝子(新英語教育研究会)訳