2004年

 ピースレインボー:2004年10月17日 パンビアン美知子コンサートと報告集会

2005年

 平和の子どもの像(Children's Peace Statue)10周年記念ツアー 

 

 

2005アメリカ訪問記

「平和の子どもの像 (Children's Pece Statue)の10周年式典」

8月4日〜11日

 

池田 真澄

 

 <10年ぶりのサンタ・フェで>

 Camy Condonさんからのお誘いで、「平和の子どもの像 (Children's Peace Statue)の10周年式典」に参加してきました。

 この像は、アメリカの子どもたち (Kids Committee) が小学校で Sadak oの物語を読んで感動し、アメリカにも姉妹像を作りたいと思ったことから出発しました。それも原爆が研究・開発・製造されたニューメキシコ州のロス・アラモスの小学校だったのです。アメリカ中に「1人1ドル」の募金を呼びかけ,像のデザインもアメリカ中の子どもに応募を呼びかけて95年に完成を迎えました.ところが彼らが設置を目指していたロス・アラモス市議会では許可が下りず、アルバカーキ美術館に3年間置かれていました。しかし次にサンタ・フェ市に置くことが決まり、現在は宿泊施設ゴースト・ランチの庭に置かれています。これでロス・アラモスまでの距離は90マイルから20マイルほどに近づいたわけです。

 式典(といっても庭の明るい日差しの中での集会)は、合唱、開会挨拶、牧師の挨拶、キャミーさんの「平和の子の像」ストーリー、子どもたち(トラビス君、ケートリン、ボニーさん)の語り、日本からの挨拶,子どもたちによる折り鶴の飾りつけ、歌(We Shall Overcomeを含む)、車と自転車によるデモと続きました。約200人ほどが参加しました.当時の「子どもたち」はすっかり成長し,立派な若者になっていました。ボニーは可愛い赤ちゃんを抱いていました。キャミーさんは相変わらず元気で,集会の中心として精力的に動き回っていました。

 日本からは広島市長秋葉忠利さんからのメッセージを読み上げ,「世界の子どもの平和像」が東京・広島・京都に誕生したことを報告しました。終わったら皆さんが standing ovation してくださり恐縮してしまいましたが,はるばるサンタ・フェまで来て平和への思いを共有できて良かったと胸が熱くなりました。

 子どもたちとサポーターの願いは、やっぱり原爆の研究・開発・製造が行なわれたロス・アラモスに像を置くこと。挨拶の中でそのことが強調されたし,歌を歌いながら、その時にまた再会することをみんなで誓いました。愛知県のM先生からは8000羽もの千羽鶴を送っていただきました。アメリカの子どもたちが作った千羽鶴とともに「平和の子の像」を美しく飾りました。

 

広島市長のメッセージ(一部略)

 「平和の子の像」の建立10周年式典が開催されるにあたり、メッセージをお送りします。ヒロシマは60年前の被爆体験を原点に、核兵器の廃絶と世界恒久平和の実現を訴え続けてきました.しかし、世界各地で憎しみと暴力、報復の連鎖が断ち切られないまま、今なお地球上には大量の核兵器が存在し,使用される可能性が高まっています.(中略)

 こうした中、アメリカ全土の子どもたちから1ドル募金などによりサンタフェに建てられた「平和の子の像」の10周年式典が開催されますことは誠に意義深く,関係者の皆様の平和への取り組みに深く敬意を表します.今後ともヒロシマの記憶を心にとどめ,憎しみや恐怖から解放された、核のない平和な世界の実現のために私たちとともに力を合わせ行動していただくことを心からお願い申し上げます.ご参列の皆様のますますのご健勝をお祈り申し上げます.

 2005年8月6日 広島市長 秋葉忠利

 

<珍道中>

 サンタ・フェへの道のりは本当に大変でした。LAからの飛行機は故障で飛ばず,急遽フィーニックス経由で行くことに。さらに追い討ちをかけるように、機内持ち込みの手荷物を無理矢理係員に奪われ,それを受け取るのに時間がかかって,フィーニックスからの便に間に合わず、次の飛行機に変更。アルバカーキに到着したのは深夜11時過ぎとなりました。

 キング・センターの周囲は黒人が多い地区で、道案内するふりをしてたかろうとする輩、札の交換を乞いながらたかろうとする輩に出会いました。昼間で3人いっしょだったので、すごすごと引き下がってくれましたが,夜で1人だったら危ないことになったでしょう。(この人たちはその英語から判断して,昔からこの地区で育った人ではなく,最近移民あるいは不法入国してきた人たちでしょう)

 

<素敵な出会いと出来事>

 教育事務所のインディアン局を訪問したら,次の日に本のプレゼントを持って会いにきてくれたプエブロ・インディアンの人たち。スタッフの紹介で,インディアンの自宅訪問もさせてもらえました。ロス・アラモスの下流に住む彼らは、ずっと昔からそこに住んでいるのですが、放射能廃棄物の影響でガンなどの被害にあっています。また話題にはなりませんでしたが、フィリピンの「バターン死の行進」で日本軍に殺された人にはニューメキシコの部隊出身者が多く,とりわけインディアンの人たちが多いのです.彼らはそんなことはおくびにも出さず,平和のために話をしてくれたし、鷹の羽や陶器のお土産をくれました.

 日系人収容所の研究をしている岡田貢一朗さんは、収容所跡を案内してくれた上に,研究論文までプレゼントしてくれました。このサンタフェにアメリカ全土の日系人の主要人物を集めた収容所があったことは初めて知りました。主要人物をここにあつめて、行動に立ち上がれないようにするというのがアメリカ政府の意図であったようです.

 ゴーストランチの「平和の子の像」を訪れた「核兵器解体ウオーク」の3人の日本人僧侶たちは、何と San Francisco からトリニティサイトまでの2500キロを歩いていました。「子どもの平和の像」のことを詳しく聞いて大いに共感しあいました。テレビ局が私たちも含め取材してくれました。

 キング・センターでは残念ながらコレッタさんには会えませんでしたが,夜センターの庭で反核団体による「長崎式典」があり、参加することができました。平和の歌,サダコの物語と踊り,折り鶴,灯籠流しなど、飛び入りの私たちを暖かく迎え入れてくれました。ここで黒人女性がそばに来てくれて一緒に歌った We Shall Overcome は最高の思い出です。

 

関連リンク:

世界の子どもの平和像を東京につくる会

世界の子どもの平和像を京都につくる会