ベトナム人民と共に戦った仲間たちと感動・感動しあった旅
2005年全土解放30周年にまた来ます!

阿原 成光 (東京・和光大学)

1.「ベトナム戦争は終わっていなかった」
枯葉剤犠牲の子供たちに会い、交流して思い知らされたこと
 「タインスアン・ハノイ平和村」の古くて暗い廊下から、枯葉剤犠牲の子供たちが介護されている部屋へ入ると、丸々の赤ちゃんが腹ばいでユラユラとゆらさ れていた。聞くと、筋肉を動かすと痛みが走るのだという。引き寄せられて、赤ちゃんの前にしゃがんだ。支えられて立った赤ちゃんは、窪んだ眼の奥から、 じっと私を見つめる。舌を思い切り下にのばしながら、私をじっとみつめる。私もつられて舌を出して、挨拶をした。2歳になったばかりの「翁」はつぶやく。 「痛いんだよ。痛くてねえ。つらいよ。」枯葉剤の犠牲は代々煮詰まっていくという。二代目より三代目、枯葉剤犠牲の質の度合いが深まり、広がるという。 「生まれて、ずうっと痛さと闘っているんだよ。戦いはまだ終わっていないんだよ。これからも、ずうっと戦いだよ。」吸い込まれるようにして、動けなかっ た。「頼むよ。わしらのことを、みんなが忘れないように、知らせて、ほしいね。たのんだよ。」ようやくの想いで立ち上がり、入り口で振り返ると、手をふり ながら、私はまたじっとみつめられた。階段を上る靴は鉛のように重かった。
 アメリカ政府は、太平洋戦争で日本を降伏させるのに、原子爆弾投下と枯葉剤散布の二つの戦術を考えて準備させていたという。1945年7月25日原子爆 弾実験が成功し、8月6日ヒロシマ、8月9日ナガサキに投下した。その後、研究開発していた枯葉剤は、ベトナム戦争でベトナムのジャングルに撒かれに捲か れた。同じ場所に何回も撒かれたという。ベトナム人にも、参戦していた諸外国の兵士にも、犠牲者は出た。その子供たちの奇形児は全世界に出ている。もし、 原爆実験の成功が遅れて、枯葉剤の製造が間に合っていたなら、青々とした日本の水田に枯葉剤は散布されていたかもしれない。放射能とダイオキシン、21世 紀の二大環境問題の責任はアメリカ政府にある。アメリカ政府は枯葉剤とこの子供たちの犠牲との因果関係を、いまだにみとめていないし、なんらの補償もして いない。
 1975年4月30日サイゴンの大統領府の屋上にベトナム国旗がひるがえり、蟻が象を倒したように、ベトナム人民はアメリカを打ち負かした。「自由と独 立ほど尊いものはない」というホーチミンのことばを信念とし、勇気と知恵をふりしぼって、ベトナム戦争を打ち勝った。ベトナム戦争を一緒に戦った想いで いっぱいの平和を愛する日本人民は、翌日のメーデーで喜んで、泣いた。それ以来、ベトナムのことは気になっていたが、ベトナム戦争は終わった、と思ってい た。去年、「ベトナム友好村」を訪問し、今年はもうひとつ「タインスアン・ハノイ平和村」も訪ねて、枯葉剤犠牲の子供たちにじっくり会って、交流して、 「ベトナム戦争は終わってない」と思った。枯葉剤の犠牲者は200万人を超えるという。そして、その子供たちの犠牲者はベトナムだけで60万人を越えると いう。二つの施設にいる子供たちは合わせて、200人足らず。枯葉剤犠牲の子供たちに光をあて、暖かい心をできるだけ多くの人々と枯葉剤犠牲の子供たちに 寄せていきたい、と思って帰ってきた。
   今年の二月にハノイ平和村を横井久美子さんと訪れた松本まさ子さんは、この五ヶ月で一万ドルを集めて、今回届けられた。今までずっと欲しかった医療器械と 三人の子供の手術ができると、所長さんは大喜びであった。ベトナム友好村では、所長さんから「コンピューター教室を作りたい」と言う希望をきき、それに必 要な二万ドルをみんなで集めようと決意しあった。新しいベトナム支援のひとつの始まりである。新たな人生の始まりのようにも思えた。
 横井久美子さんたちが「ベトナム友好村」を訪ねたと思っていたら、なんと「タインスアン・ハノイ平和村」であった。この二つの施設は「人類の平和と子供 たちの幸福にとってもっとも貴重な場所」だと思える。簡単な紹介をしておこう。
   「タインスアン・ハノイ平和村」は1991年にドイツ平和村とドイツ政府の援助で設立された。古い建物の中の枯葉剤犠牲の子供たちの医療と教育の施設であ る。所長は女医さんである。(http:www.txpeacevillage.org.vn)
   「ベトナム友好村」は、元ベトナム参戦アメリカ兵士ジョージ・マイゾー氏のよびかけで、米、独、仏、英そして日本の平和を愛する退役兵士たちとベトナム退 役兵士の会が協力して、1992年から準備して1994年に開所した。枯葉剤犠牲の子供と元兵士の更生療養施設で、所長は元ベトナム軍人である。( http:www.vietnamfriendship.org/village.htm)
 「ベトナム友好村建設日本委員会」は「不戦兵士・市民の会」事務局にあり、山内武夫さんが担当されているが、ご高齢でご病気でもあり、これを今後どう受 け継いでいくかが、私たちの課題になっている。今回の訪問では、山内さんの日本委員会からのメッセージを持参して、所長さんに届けた。

去年友好村を訪問したとき、一緒に写真を撮った子供たちに会いたかった。
   身長1メートルに満たないロアンちゃん、目の大きなロンさちゃん、大きな頭のルンくん、笑顔のかわいいランちゃん。みんな元気だった。うれしかった。ロア ンちゃんからきれいな刺繍をプレゼントされた。ツアー団の若者たちが歌をプレゼントしたお礼にと、子供たちが歌ってくれた元気な声を聞いて、外に出て、た まらなかった。歯をくいしばってこみあげるものを耐えていると、所長さんにやさしくうながされた。なんで、こんなにも、いま、子供たちが労苦を耐えていな ければならないのか。怒りを熱い青空にぶちあてていた。
 病棟に入って、びっくりした。「水俣病の松永久美子さん」がいた。21歳で寝たまま、わずかに見えるだけ。立てない、座れない、歩けない、読めない、歌 えない。みんなが来てくれたのがうれしいのだと、短い腕を組み合わせるように振っていた。また、たまらなくなっていた。なんでだ。どうしてだ。ちょうど居 合わせたルンくんの笑顔に救われた。私もにっこりと笑顔を返した。
   「ベトナム戦争は断じて終わっていない」この子供たちに明るい笑顔が保障され、アメリカ政府がその責任をとり、謝罪し、補償することがないかぎり、ベトナ ム戦争を終わらせてはならない。心からそう思った。

2.「早乙女のお父さんお母さんに家を見に来て欲しい」ダーちゃんの願い
 ダーちゃんは早乙女夫妻を両親と思っている。去年会って、今のお互いをビデオで出会わせたいと思った。上野での『平和展』を見て、夫妻のメッセージを録 画した。棚橋さんが高校の教科書にダーちゃんを載せたので早乙女さんに渡すために同席してもらった。ダーチャン再訪問の今回の意義の一つである。  
   次女のユンさんがホーチミン市に居ると聞いていたので、ガイドのホーさんに頼んでおいた。いろいろ苦労してくれて、ホーさんが開いたお土産・雑貨店で会え た。去年よりずっときれいになっていた。みんなの協力で一緒に帰れるようになって、飛行機でダナンに、バスでホイアンそしてソンミ村虐殺記念園と、旅をと もにした。クアンガイのホテルでの交流夕食会は、ダーちゃん夫妻と三人の娘たち、妹のテインさん夫妻と二人の子供たちと、大いに盛り上がった。この二家族 の絆の強さに若者が感動していた。いま生きていることの重みを、常にお互いに触れ合いながら確認しているようにもみえた。
   次の日、ダーチャン夫妻の計らいで、家の真ん前にある中学校の校長先生、生徒たちとの交流ができた。若者たちが大いに活躍した。中学英語教師の関口さん、 福島さんが生徒の自己表現作品を持参し、プレゼントして、喜ばれた。子供たちにも、自己紹介を英語で書いてもらった。 
   ダーちゃんの家には、今年は、電話もテレビ、ビデオもあった。ビデオテープの巻き戻しが手動であったのは、ちょっとビックリであった。早乙女さんに託され た1991年ニュースステーション特集番組「16年目の傷跡・ダーちゃんはいま」をみんなで見た。むかしの映像に懐かしさと涙があった。そのあとで、ふた つの家族からの早乙女夫妻へのメッセージを録画した。ぜひ、この家を見に来て欲しい、というダーちゃんからの強い願いが語られた。早乙女さんにきちんと伝 えたいと思っている。願いが叶えられればいいなと思う。ダーちゃんは、本当にベトナムの肝っ玉母さんになっていた。今年から、末娘も成績優秀のために遠い 高校に行くことになり、夫婦ふたりになるという。ちょうどお土産にとプレゼントした夫婦茶碗がピッタシカンカンであった。
   ベトナム戦争をもっときちんと、次代の子供たちに伝えていく必要があると思う。「ベトナムのダーちゃん」はとてもいい教材だと思う。今回同行した斉藤美代 子さんの「英文ベトナムのダーちゃん」を、ずっと教材として使っていた棚橋さんが教科書に書いた。この労作を大いに活用したいものである。

3.ベトナムに感動、仲間に感動、人間に感動、感動の旅でした
 今回のツアーはメンバーがお互いに感動しあった特別な旅であった。本当に得をした気持ちでいっぱいである。特に仙台から参加された80歳を越える葛西正 子さんのお話には一同大感動であった。交通事故での死の病床で「ベトナムの若者たちを死なせないでほしい」を叫んだ息子さんと一緒に来ました、と言う話に は一同涙にくれた。バスの中での自己紹介が充実していて、本当に楽しかった。若者が多かったのも、よかったようだ。峯崎拓美くんが、日本ベトナム友好協会 東京都連青年部長としての自覚を少しずつ高めていく様子は、みんなで喜んだ。今、ベトナムはすごい勢いで成長している。日本の若者たちも負けずに成長して いって欲しいものである。
 今回の共催団体である日本ベトナム友好協会東京都連・会長の木谷八士さんからのメッセージを、ベトナム諸国友好連合会ハノイ本部に届けた。フランス統治 時代の古くて豪華な建物で交流ができた。6月にハノイ支部の代表団が東京に来て、「東京大空襲・戦災資料センター」を訪ね、これからも同じアメリカの空襲 を受けたふたつの首都が交流を深めることを確認し合った意義は大きい。この交流と連帯を大切にしたいものである。
 2001年12月、2002年8月と三年続けてベトナム通いになっているが、今年はサーズ騒動で一時はどうなることかと心配した。ガイドのホーさんは独 立して事業を始めたが、この騒動で頓挫してしまったとか。しかし、平和村や友好村の子供たちの将来を考えて、自分の店で子供たちの製品を売っている。誰も が惚れるいい男である。愛国者である。祖父、父親の血をひいているのだろう。別れ際に「もっとたくさん連れて来てください」と頼まれた。
 2005年はベトナム全土解放30周年である。私には夢がある。友好村に二万ドルは届けたい。平和を訴える元ベトナム参戦アメリカ兵アレン・ネルソンを ダーチャンに会わせたい。早乙女夫妻も一緒に行けたらいいなと思う。